« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月

2010年9月30日 (木)

言外の意味

「あなたの報告を聞いているとまったくそのとおりだと普通なら思うでしょう。つまり、三木清の著作だけをよんでいればそうならざるをえないでしょう。でも私にはそれはまったく違っていると思われるのです。なぜなら私は三木清を知っているので、あなたの報告はまったく違っていると思ってしまうのです。この問題をどう考えるかですね。書物を通じて三木清の人間に迫らなければならないということになるのでしょうか」

Img_0018
書いた人間を知っていると、書いたものの意味が違って見える、ということか...それも言外の意味、というやつか...本人が込めたつもりがなくても、込められてしまう意味...

Img_0019
阿部謹也著 「自分のなかに歴史を読む

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (2)

2010年9月29日 (水)

完全燃焼

「ヘイエルダールの魅力は文体に尽きるのではないかという気がする。彼の文章を読むと各節各句で完全燃焼が果たされていて、読後にはなにものこらない。これはよほど気力が充実していなければできないことである。ある種の文章は、小説でもエッセイでも、その効果が作者の主体と密着行動をとったヴォキャブラリーの累積効果というよりは書かれた内容そのものの不燃焼物の重層感であることが多くて、またそのような文章にはしょっちゅう出会わし、いつわりの感動をあたえられてあとから後悔するが、書き手が対象を完全に克服しているときの文章のあたえる効果はつねに真空状態である。精神の不消化物がなにひとつとしてのこらないのだ。ヘイエルダールにしても、キャパの『ちょっとピンぼけ』にしても...」

Img_0001
ああそうか、「考えさせられる...」という感想を読むと何で嫌な気分になるか、またちょっとわかったぞ...

Img_0002
開高健著 「開高健の文学論」

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (2)

2010年9月28日 (火)

ひっし

時々、「必死にやる」のが良いことか悪いことか、みたいな議論が起きることがあって、何だかとても違和感を覚えてしまう...

「必死にやる」かどうか、って、そんなの選べるものなんだーって思うから。

だってそうでしょう。何かどうしても欲しいものがあって、それがたとえば今、自分の持っている能力や、いる位置からして、なかなか手に入れるのが困難なものだったとしたら人はどうするか。それでもどうしても欲しければ、自然に必死になるでしょう。ならないんだとしたら、そんなに欲しくないってこと。それだけ。

で、もし、すごく欲しいものが、案外手に入りやすかったりしたら、必死にならなくてもいいかもしれない。なる必要ない。だけど、本当にどうしてもどうしても欲しければ、簡単に手に入りそうでも、「もしかすると...ダメだったらいやだ...」と不安になって、やっぱり結局、自然に必死になってしまうかもしれない。

人によっては、ただ生きるだけでも、食べていくだけでも、必死にならないといけないかもしれない。毎日の食べ物は、そりゃどうしても欲しいものだから、それがなかなか手に入らなければ、自然に必死になるよね。

必死になるべきか否か、選んでなんていられない....

ただ、それだけ。ああ、あほらし。

| | コメント (5)

2010年9月27日 (月)

本屋のたのしみ

本屋を歩いていて楽しいのは、色々な本と対話ができる、というところではないか。それはつまり、色々な著者と、ということだ。しかも世界中の...

なんと、もう何千年も前に死んでしまった人とも対話ができる。なんてこと...

タイトルを見て歩くだけで、そういう対話は結構、成り立つ。タイトルみて、「ふーん」と思ったり、「そうなんだ!」と思ったり、「んなわけないやん!」とつっこんでみたり。それがまた、楽しい。

そして、同じ人間とはいえ、持てる知力、やる気には、人によって大変な差があることを思い知らされるのも、本屋である。

ほんまにむちゃくちゃで薄っぺらな、とてつもなくアホな本を書く人、そしてそれを読む人も、

もう、なんでこんなことを思いつくのー、うそー、という本を書く大天才も...

同じ人間なのだ...めまいがする...その幅広さ...

豊かだなあ、と実感する。

| | コメント (2)

2010年9月26日 (日)

生命とは何か 物理的に見た生細胞

シュレーディンガー著 岡小天・鎮目恭夫訳 「生命とは何か 物理的に見た生細胞

Img_0001

Img_0002

「物理法則は原子に関する統計に基づくものであり、近似的なものにすぎない」

「日本人って...だよね」という類のことはよく話題にのぼるけれど、話がしばらく続くと、必ず誰かが、「いや、例外もあるよ」「自分の周りに(あんまり関係ないけど、この言い回し、あんまり好きじゃない....)はそういう人はいないよ」などと言い始める。それで、何となく「まあ、そりゃそうだな」ということになり、うやむやのまま話題は移る...

だいたい、いつもそういうパターン...

これ、とても変だな、と思う。どうも「全体的な傾向」の話と、「個々の性質の話」がごっちゃになっているような。意識的にごっちゃにしている人もいるんだろうけど。「日本人て...だよね」の「...」の部分に賛成の人はできるだけ全体の話にしたがり、反対の人はできるだけ個々の話にしたがる、という。

こういう類のぐだぐだが、どうも苦手だ。ぐだぐだ自体は結構好きなんだけど、何十年も同じパターンでぐだぐだ、っていうのがどうもね。飽きてしまう。みんな、よく飽きないなあ。そろそろ違う話、しようよー。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2010年9月25日 (土)

職人仕事

「職人は腕が良ければいい」という考え方は嫌いではない。そういう生き方もあると思う。腕が良くて、良い仕事をすれば、誰かが見つけてくれて、その人のおかげで、またさらに良い仕事ができる。そういうのも真実だと思う。

そういう意味で、腕を磨き、良い仕事をしていきたい、という気持ちもある...

....あるのだけれど、

「それだけじゃイヤだ」

という気持ちも強くある。見つけてもらうのを待っているだけだと、いつになるかわからない。そっちもちゃんとやりつつも、自分で自分の仕事を作り出せるような力も持ちたい。それに必要なのは...

はっきり言って、お金だ

お金があれば職人仕事にさらに可能性が広がる。可能性が広がれば、腕が磨かれるチャンスも増える、ますます人に見つけてもらいやすくなる。

お金をちゃんと持ってこれる職人になりたい、と思う。

...そういえば、ここでその話するのは、すごくおかしいのは知っているんだけど、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、良い仕事をするために、あちこちに手紙を書いて「金をくれ」と頼んでたみたいなんだよねえ...

あの、ダ・ヴィンチでも...

あとは推して知るべし。

| | コメント (0)

2010年9月24日 (金)

理想と現実

理想と現実は違う。全然違う。まったく、何の関係もない別のものだ。

だから、理想を下回る現実、ばかりじゃなくて、実は

理想を大きく上回る現実

というのもあるんだよ。

頭で考える理想、というのは、何というか「まん丸な図形」みたいなものだ。そして、現実はそれとは違う、でこぼこな図形。現実をまん丸にするのは難しい。でも、面積は、まん丸よりずっと大きくできるかもしれない。ちっぽけな頭の中のまん丸よりも。形をまん丸にするよりそっちの方がずっと易しい。きっとそっちの方が面白い....

...ずっとそう思ってきたけど、これからもそう思い続けるけど...

小さくても、どんなに小さくても

まん丸じゃなきゃいやだ

それしか認めない

...そういう人もいるんだなあ、ということは、だんだんわかってきた。理解できてきた。

理解はしたけど、共感はしない。したいとも思わない。ああ、違うんだ、と思うだけ。

| | コメント (0)

2010年9月23日 (木)

自然

Img_0012

「自然が豊かで...」と言うから何かと思うと、ゴルフ場のことだったりする。ゴルフ場のどこが自然やねん。全部「人工」やんか。なんか、緑色してたら自然、って言うのは違う気がする。観葉植物とかね。

たとえば都会なら、何が自然かって、人間の身体の中、ほどの自然はない。これはもう天然ものですよ。緑の野菜よりはるかにね。緑の野菜は自然の恵み、とか言ってるけど、人間が長い間かけて品種改良したものだし。そうそう、何より美味しくなるように改良したんだよ。

人間の身体はキャンプ場より自然だ。飯ごう炊さんの設備があったり、水道があったりするキャンプ場は自然じゃないもんね。

いや、だから、そもそも「自然がいい」なんて誰がいつ、決めたの?って話。何が自然かも曖昧なのにね...

Img_0013

日高敏隆著 「春の数え方

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2010年9月22日 (水)

共生生命体の30億年

リン・マーギュリス著 中村桂子訳 「共生生命体の30億年

Img_0001
この本を読んでいて、まず感じたこと...それは、

「人間て、ゲッターロボ、みたいなもんやねんなあ...」

ということ。わからない人も多いと思うが、ゲッターロボというのは、三体のロボットが合体してまったく別の一体のロボットになる、というヒーローである。それと同じようなもの、ということ。

またはローマ帝国、とか、グーグル、とか。そういうのも連想した。色々なものを取り込み、大きく複雑になっていく、という。

そして、こうも思った。

「単独で大きくなるというのは、やっぱり限界があるな」

他人の力を借りるというのは、大事なことなのだろう。やっぱり。何を今さら、であるが。

Img_0002
ミトコンドリアは、もともと、細菌なんだよねえ...

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2010年9月20日 (月)

すききらい

「嫌い」という感情は、持たない方がいい。よくそう言われる。私もそうかもしれない、と思っているところがあった。誰かを、何かを嫌っていると、それだけで消耗するような気がするし...

だけど、最近、ちょっと考えが変わってきた。

「嫌い」という感情がそれほどよくないものなら、そんな感情がなぜ、長い進化の歴史の中で、消えずに残ってきたのだろう。

そんなことを思うようになったのだ。何しろ、「嫌い」という感情は、頻繁に湧いてくる。一度もその感情を持たずに一日を過ごす、なんてことがとても不可能なくらいに。そんなに頻繁に、自然に湧いてくるのだから、何かしら役割があるのではないだろうか...

そうしたら、思い当たることがあった。この感情には良いところもある。それは、

嫌いだと思えば、それに近づかなくなる。

というところだ。人間の使えるエネルギー、時間は限られているから、誰にでも何にでも使うわけにはいかない。でも、誰か、何かを嫌いだと思えば、そちらにはエネルギーや時間を使わなくなる。おかげで別の何かに集中できるのだ。この考えが正しいかどうかはわからないけれど、自然に湧いてくるものを無理に抑えつけることなんて、そもそもできないような気もする。無理に抑えつけるのにエネルギーを使うのも何だかバカバカしい...

| | コメント (2)

USTREAM 世界を変えるネット生中継

川井拓也著 「USTREAM 世界を変えるネット生中継

Img_0001  

以前、「知ってるつもり?!」というテレビ番組があった。著名人の生涯をたどる、という感じの番組。最初のうちは熱心に見ていたのだけれど、いつからか、どうにもいたたまれなくなって、見るのをやめてしまった。それはなぜかというと、

「誰の人生も同じに見えるから」

だ。とにかく誰の人生を取りあげても、全部同じようなパターンなのだ。おおまかに言うと、こんな感じ...

1. 最初は無名で苦労する。

2. なかなか芽が出ない。

3. あきらめかけた時に思いがけない幸運が訪れ、成功する。

4. しかし、しばらくすると苦悩に襲われる。

5. 皆に成功を羨まれながら、人知れず悩む。

6. そばにいる人(男性なら女性、女性なら男性)の献身的な支えもあって、立ち直る。

7. 新たな境地へ...

細かいところは、違うことも多々あったとは思うけれど、こういう印象。

誰の人生も同じってことは絶対にないと思うのだ。最初からすぐに成功して、後、そんなに苦悩しなかった人もいるだろうし、成功した瞬間ですらずっと苦悩していた人もいただろう。最後まで立ち直らなかった人もいるだろうし。そばにいる人に支えてもらうどころか裏切られ酷い目に遭わされた人もいただろう。

成功した人はみんながみんな人知れず苦悩を抱えていた、なんてことを毎週毎週言われていたら、そのうち、「成功した人は苦悩する」というのが当たり前になってしまう。「意外なことに、あの人にもこんな苦悩が」なんて言われても、もうまったく意外に思わない。かえって、「成功して、その後は有頂天のままですね。あの人は。実に羨ましい」なんて言われた方がびっくりする。

....と、こういうことが起きるのは、「編集」をするからである。編集をする人が最初に「この切り口で」と決めてしまえば、だいたいどんな人生だって、同じシナリオにまとめることができるのだろう。「知ってるつもり?!」に限らず、いつからか、内容じゃなくて「切り口」を見せられているような番組が多くなって、それで、だんだんテレビ(地上波)を見るのがイヤになってしまった...

そこへ登場してきたのがUSTREAMである。多くの映像は、素人が作り、ただ垂れ流される。「編集」などというものはほとんどされていない。作り手の伝えたいことがあったとしても、それと同時に大量のノイズが同時に流れる。決して見やすくはない。

だが、だからこそ、見方はこちらで自由に選べる。こういう切り口で見なさい、と強制されることはない。一人一人が勝手な切り口で見ればいいのだ。

USTREAMの何もかもが良い、というわけではないけれど、押しつけ、強制がないのは嬉しい。テレビはきっと、「何千万人が同時に見て、誰もがわかり、共感できるように」と考えたら、ああなってしまったのだろう。でも、世の中には、音楽家の恋愛や芸人の苦悩よりも、作品や芸の方に興味がある人だっているのだ。作者の人生なんて別に知りたくない。業績だけが知りたい、そういう人もいるのだ。何千万人というわけにはいかないけれど。

100人、1000人を相手に作ればいい番組なら、無理な切り口は必要ないだろう。今は垂れ流しが多いけれど、そのうち、100人、1000人に合わせた切れ味鋭い編集をする人が現れるに違いない。これからが実に楽しみだ。とにかく、みんなが一斉に同じ番組を見る、なんていう時代が異常だったのだと思う。

Img_0002

ダダ漏れ。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2010年9月19日 (日)

できる と やる

「できる」と「やる」は全然違う。そんなのみんなわかってる、と思うのだけれど、実際やってみると、まったくわかっていなかったことに気づく。「できる」を「やる」に変えるためには、最初に思っていたのの、少なくとも10倍くらいのパワーが必要だ。できるとやるの間には、東京とニューヨークくらいの距離があるような気もする。

それを知っているから、「やる」人は、他の人のやることに、あんまりああだ、こうだ言わない。「できる」と思っているだけの人は、他の人のやることに安易になんだかんだと言う。

「やる」人どうしはわかり合える。やればやるほど、わかり合える人が増える。

やるかやらないかは自由だし、やらない良さもあると思うけど、やる良さは絶対ある。

| | コメント (0)

2010年9月18日 (土)

ナツメロ

歌は世に連れ、世は歌に連れ...

あんまり好きな言葉ではない。歌とともに昔を振り返り、その時を懐かしむ、なんてことは全然したくない。歌に対しては、好きか、嫌いか、という尺度しか持ちたくない。いつの歌だろうが、誰の歌だろうが、好きなものは好きだ。好きな歌をいつでも好きな時に聴きたい。

テレビを見ていたら、40代(私と同じくらい!)、50代の人たちが、自分の若い頃に流行った歌を、昔を懐かしんで歌ったり聴いたりしている映像が流れた。悪いけれど、あまり美しい姿とは思えなかった。なぜだろう。そこで流れていた音楽は確かに素敵なものばかりだったのだけれど。

まず目がうつろなのだ。目の前を見ていない。ひょっとすると、流れている歌も聴いていないかもしれない。その歌に関わる自分の過去の姿だけを見ている、そんな気がしたのだ。歌なんか、実はそんなに好きじゃないのかもしれない。ただ、若かった自分が好きなだけなのでは。そう思えて仕方ない。なんだか、歌がかわいそうな気もした。

その気になって耳を傾ければ、彼らが懐かしむ時代の、前にも後にも素敵な歌がたくさんあるのに。自分たちの時代が最高!なんて...自分が作った歌というわけでもないのにね。

あと、元々、水と油みたいに違うはずの音楽を安易に「なつかしい」でまとめ、一緒にしてしまう姿もいやだった...

はっぴいえんどは、フォークじゃないよーロックだよー...ぶつぶつ。ほんとはそれが一番イヤだったりして。

| | コメント (0)

2010年9月17日 (金)

てんさい

昨日の話、一つ例をあげるとすれば、

イチロー選手は天才か努力家か

みたいな話ですね。どっちだと言っても賛否両論ありそうでしょう。そう思うだけで、意見を言う気がなくなる。だって、そんなのわかるわけないよね。ただ考えるのは面白いし、何だか世間話レベルでうだうだ言うのは面白いかもしれないけど、公の場で意見を言ったり、ましてやそれを商売に結びつけたり、というのは、まあ...

ようやるわ

って感じです。いや、そりゃ別にそんなの人の勝手なんだけど。でも、何だかつまんない。だって、イチロー選手が天才かどうかなんて、どうだっていいでしょう。そんなことより、見られるうちに彼のスーパープレーをたくさん見て、目に焼きつけておく方がいいと思うなあ。ほんと、すごいんだから。天才か努力家かは知らないけど、プレーが「超人的」っていうのは確かだもん。

仮に天才だとわかったとして、逆に、努力家だとわかったとして、それがどうしたというんだろう。あなたの明日に何か変化はありますか。あんまりないような気がする。

そんなこと考えている間に、自分が少しでも動く方がきっと面白いことがあるような気がするなあ...

と、まあ、それだけの話。

| | コメント (0)

2010年9月16日 (木)

ふしぎなこと

世の中には不思議なことがいくらでもある。たとえば、

ちょっと考えるだけで賛否両論ありそうだなあ、とわかることについて明確な意見を持つ人が多い

ということ。何十年も何百年も、ひょっとしたら何千年も、賛否両論のまま、まったく結論が出る気配もない、そういう問題も中にはある。そんな問題について、人はなぜ明確な意見を持てるのか。そんだけ長いことみんなで考えて結論が出ないんだから、絶対にすっごく難しい問題なわけですよ。世紀の大天才、みたいな人でも全員を説得はできなかった。なのに...

私の意見が決定版!これが結論!

みたいにどうして言えるのかなあ...

賛否両論あるんだよなあ...と思うだけで、考え込んじゃって意見なんてとても持てないけどなあ...

立場上、便宜上、どうしても意見を明確にしなくてはならない、そうしないとみんなが困る、という人はいるけどね。

| | コメント (2)

2010年9月15日 (水)

ヒトゲノムとあなた

柳澤桂子著 「ヒトゲノムとあなた

 

Img_0003_4

この本のタイトル、どうしても「ヒトゲノムとわたし」だと思ってしまう。気づくと「さあ、『ヒトゲノムとわたし』の続きを読むぞ...」などと思っていたりする。どうしても、そうなってしまう。困ったものだ、と思っていたのだが...

Img_0002

「...個人にとっても遺伝子はもはや対岸の火事ではありません。自分のもっている遺伝子の意味をよく知り、よく考えなければならない時代がやってきたのです...」

柳澤さんがこう書いているのだから、やっぱり「わたし」でいいのかもしれない。柳澤さんが読書に向かって、「あなた」と呼びかけてくれている、ということは、読者である私にとって、この本はやっぱり「ヒトゲノムとわたし」でいいことになる....わかりにくい...

反射的に、この本のことを「ヒトゲノムとわたし」と思ってしまうということは、著者の狙いどおり、本を読んだ私が遺伝子のことを自分の問題として考えている、ということなのだ、と思う。なるほど...素晴らしい。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2010年9月14日 (火)

天気予報

ほぼ毎日、同じ時間にNHKの天気予報を見ている。つまり、毎日、同じ人の口から、明日の天気を知らされるわけだ。

この一週間くらい、「明日から涼しくなります」という言葉を何度も聞いた。そうかそうか、と期待していたら、見事に裏切られる、というのが続いた。だんだん、イライラしてくる。「うそつきー、責任者出てこーい」などと不穏当な言葉も飛び出す始末...

でも、よく考えれば(考えなくても)、別にその人が天気を決めているわけでもないし、実は予想だってその人がしているわけではない。ただ、他の誰か(それもきっと、複数の人が話し合った結果だ)が出した予報をそのまま伝えているだけだ。何の責任もない。ウソをついて騙したわけでもない。まったく悪くない。お門違いもいいとこだ。

この場合は、まあ、わかっていて言っている(八つ当たりしている)わけだけれども、実は気づかずに同じようなことをしていること、多いのかもしれない。いかにも責任があるように見えて、実はそうではない人、責めても仕方のない人を知らずに責めてしまっている...そんなことがあるかもしれない。怖いことだ...。

ともかく、Hらいさん、数々の暴言、すみませんでした...(関東在住の人しか、誰かわからないよな...)。

| | コメント (2)

2010年9月13日 (月)

アホ

アホな人にもいくつか種類があると思うが、その一つは、

何か一つの目的に一生懸命になるあまり、他のことがおかしくなっていても気づかない

そんな人、ではないだろうか。

テーブルクロスがシワになっているから直そうとしたら、シワは直るけど、上にのっているものが全部倒れてしまう...とか。何かを必死に説明しようとして、身振りや手ぶりを交え、顔の表情まで色々に変えて懸命に話した結果、何とか伝わるのだけれど、伝えようとした内容より、動きや顔の面白さの方が伝わってしまう...とか。

実は私、そういうアホが大好物(食べ物じゃないけど)なのだ。誰かのそういうアホな言動を見た時、何とも言えず、嬉しくなってしまう。

人間の持つ「破れ目」「綻び」そんなものが好きでしょうがないのだ。もちろん、いつも色々なことをうまくこなす人は素晴らしいし、それも尊敬するけど。それはまた別の話。

| | コメント (0)

2010年9月12日 (日)

また酒中日記

吉行淳之介編 「また酒中日記

Img_0002
「酒よし、肴よし、メンバーよしで、大いに酩酊する。そのあと市中にくりだして、『高田』、『V』、『ラール』と廻ったような記憶あれど、必ずしも記憶鮮明ならず。深夜、気づいたらナメクジ横丁の『真珠』にいた...」

私は極端に酒に弱い。嫌いではないけれど、ほんの少ししか飲めない。ただ、酔いつぶれたことはあるけれど、記憶をなくした、ということは一度もない。天井がぐるぐるまわって、歩くこともしゃべることもできなかった時でも、意識はとてもしっかりしていた。記憶は鮮明だ。

記憶をなくす人、なんだか豪快でちょっと憧れている。じゃあ、自分が記憶をなくしてみたいか、というと、そうではない。記憶をなくすのは怖い。普段から過剰な自意識を「嫌だなあ」と思っているけれど、その自意識をなくすのは嫌なのだ。だからこその自意識過剰、なのかもしれない....

Img_0001
こうやって「はしご」をしている時って、やっぱり「つけ」で飲んでいるのかな。そうだろうなあ。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (2)

2010年9月11日 (土)

福の神

高校生の時、校長先生は、三年間、毎日、同じ話をし続けた。どんな話かと言うと...

人間には三つの生き方がある。

1. 人のためにも、自分のためにもならない生き方。

これを「愚者の道」という。

2. 自分を犠牲にして、人のために尽くす生き方。

これを「仏の道」という。

3. 自分のためになることが、即、人のためになるような生き方。

これを「福の神の道」という。

1番は論外、2番は素晴らしいけれど、これはあくまで仏の道であって、人間には無理。だから、3番目の生き方をしなさい。

こんな話だ。

何百回も聞かされたから、さすがに頭に入っていたし、納得もしていたつもりだったけど、最近、ようやく、皮膚感覚でわかるようになった気がする。

先生、理解の遅い生徒ですみません。ほんと、今頃、ちょっとわかりました....

| | コメント (2)

2010年9月10日 (金)

愛の見切り発車

柴田元幸著 「愛の見切り発車

Img_0001
「...まるっきり見当違いなことを書いてしまっているのではないといつもビクビクしていたが、どうせ見当違いなら『ありもしない良さ』を書く方が、『ありもしない悪さ』を書くよりまだ罪が軽いと信じて、なるべく肯定的な側面について書くよう努め(まあこれはもともと面白そうな本を選ぶわけだからそんなに大変なことではない)、たまに悪口をかくときはふだん以上に特別気をつけた...」

人の悪口を言うというのは、大変なことだ。場合によっては、その人のその先の人生を決定的に損なってしまうかもしれない。だから、言う時は、よほどの覚悟をして、刺し違えてもいい、くらいの気持ちで言わないと、と思う。とてもそんな気持ちにまではなれない、というのなら、その悪口は言う必然性はないのだ。言ったところで何かがよくなるわけでもないし、是が非でも通さねばならない正義が通るわけでもない。やめた方がいいだろう。

ごく親しい人にぽろっと言うくらいはご愛敬かもしれないけれど...人の目につくところで、やたらに悪口ばっかり言う人は、よほどの覚悟がある人か、正義感のある人か、よほどのXXか....どれかだろう...あ、悪口言っちゃったかな...ごめんねえ。

Img_0002
分厚い本ってどうして見ていて、触っていて、嬉しくなるんだろう。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (2)

2010年9月 9日 (木)

まぬけ

テレビやインターネットを通じて、直接は知らない人の言動について見聞きし、「え、どうしてそんなバカなことをするんだろう」と思うことがある。「こうすればいいのに」「なんでこうしないんだ」と即、言いたくなるような。特に「専門家」と呼ばれる人たちの言動について、そう思うことが多いかもしれない。

「そんなん誰でもわかるやん、誰でもわかるようなことわかれへんなんて、専門家のくせに。専門家ってアホなんかなあ...」くらいに思ったりもする。

でも、ほとんどの場合、それはまったくの的外れなのだろう、と思う。専門家なのだから、おそらく素人が気づくことくらいはとっくの昔に気づいているのだ。だけれど、気づいてもそのとおりにはできない事情がある、そういうことだろう。また、専門家だからこそ、その事情をよく理解できる。つまり、素人の考えはやっぱり「素人考え」であって、実際に素人の言うとおりのことをしたら、余計に困った事態になるに違いない。

ごくごくまれに、「素人だからこその新鮮な発想が功を奏し...」ということもないではないだろうけど、それは稀だと思う。素人が発想でうまくいったら苦労はないよ、というところ。

素人だから、わからないから何でも気楽に言えるのだけれど、あんまり目立つところで言うと、間抜けだと思うよ。「俺だけがちゃんとわかってる」みたいなことを。

| | コメント (0)

2010年9月 8日 (水)

そうだそうだ

良くないことは良くない、と言える人でありたい。

そうではあるけれども、誰かが「良くない」と言った後ろから、

「そうだそうだ」

という人にはなりたくない。絶対、なりたくない。

安全な場所にいて、「そうだそうだ」と口々に言い、他人の将来を、人生を台無しにする、そんな、顔のない、「善良な一市民」にだけは決してなるまい。

と思う。ほんとにそう思う。

| | コメント (0)

2010年9月 7日 (火)

ひかく

何かを褒める時、こんなふうに言う人がいる。

「Aはいいね!Bはダメだけど」
「Aはいい、Bよりよっぽどいい」

これ、すごく感じ悪いなあ、といつも思っている。どうしてもAを褒めたことより、Bをけなしたことが印象に残ってしまう。そして、単にBだけをけなした言葉よりも、嫌な気分がずっと後まで残る。

どうして、何かを褒める時、何かと比較しないといけないのだろう。わけがわからない。Aだけを全力で褒めるのではどうしてもいけないのか。

なんとなく、だけど、実はAを褒めることが目的じゃないのかも、とも思う。Bは、世間でよく知られていて、人気があるものであることが多いからだ。本当は「みんなは知らないだろうけど、AよりBの方がいいんだぜ、Bを知っている俺ってすごいだろう」と言いたいのかな。それが伝わるから気分が悪いのかも。

たとえ、褒められたとしても、この褒められ方で嬉しい人ってあんまりいないんじゃないかな、とも思う。少なくとも私はあんまり嬉しくない。褒められるの大好きだし、けなされるよりはいいけどさ...

| | コメント (0)

2010年9月 6日 (月)

数字

「数字で計れない価値」というのは確かにある。それはよくわかる。でも、同時に、それを数字に換算しないと何だかピンと来ない、というのも本当だ。

たとえば、楽しみのためだけの読書であっても、「数字で計る」ということは有効である。朝からたっぷり時間があって、「今日は読むぞー、朝から晩まで、ずっと読むぞー、幸せ...」などと思っていても、ただ闇雲に読んでいると、割にすぐに集中力が途切れたり、眠くなったりする。

読みたい読みたい、読まなくちゃ、と思いながら、違うことをしてしまったりして、案外読めずに一日が終わったりする。虚しい...

しかし、「10ページごとに読む。10ページ読むまでは集中し、絶対に他のことはしない」という読み方に切り替えると、10ページごとに休んで他のことをしてしまう、という弊害はあるけれど、闇雲に読むよりは確実にページが進むのだ。結果、あー読んだ、という満足を後で得ることができる。

問題は、楽しみのために読むのに、「10ページは集中する」なんて仕事みたいなこと、したくないなあ...という心理的抵抗、だけだ。でも、読めずにいらいらするより、後で読めた、と満足できる方が良いに決まっている。

もう、なりふり構っている年齢でもなくなってきた。何しろ時間がないのだ。仕事みたいで嫌だ、とか、しょうもないことを気にしている場合はではない。それで読みたい本がたくさん読めるのなら、方法はどうでもいいじゃないか、と思っている。

数字で計るって素晴らしい。

| | コメント (0)

2010年9月 5日 (日)

からまわり

何かをとても急いで終わらせようと思っているのに、なぜかなかなか進まない。そんなことがある。いわゆる「空回り」の状態だ。なぜ、そういうことが起きるのか。よくよく考えてみると、そういう時はどうも、無意識に「作業の所要時間をゼロ」にしようとしているらしい、と気づく。

どんな簡単な作業でも、所要時間がゼロということはあり得ない。必ず、一定の時間はかかる。だから、実際に作業を始めてみると、急に「なんだ、時間、かかるんじゃないか」ということを実感して、焦ってしまうのだ。そしてしばらく、作業を進めることよりも、もっと時間を短縮できないか、という方に気がいってしまい、結局、何もせずに時間が過ぎていく….

あまりにも進まないのにいい加減嫌気がさして、「もう仕方ない、時間がかかってもやるしかない!」と開き直ると、途端に作業は進み始める。案外、早く終わることもある。最初に空回りしている時間が本当に無駄である。最初から開き直ってやれれば一番いいのだが、それがなかなかできないんだよねえ。本当に、もう。

| | コメント (6)

2010年9月 4日 (土)

かいけつ

問題は解決しない。解決したように見える時もあるけれど、実は、別の問題に姿を変えただけだ。新しい問題の方が、古い問題より自分との相性が良ければ、まあラッキーだけれど、そうでない場合は、何もしない方がよかった、ということになるかもしれない。

何か物事を動かす時は、それをわかっていないと困ったことになる。何も問題がない、不安もストレスも何もない状況、というのを目指してしまうと、永遠に苦しむことになる。自分にとって厄介な問題を、まだ取り組みやすい問題にすり替えてしのいでいくのみだ。どういう問題が取り組みやすいかも、時と場合によって違うだろう。昨日まで相性が良かった問題も、今日になって急に、手に負えない問題になってしまうことがある。

あらかじめ、覚悟しておけば大丈夫か、というとそれも怪しい。ここをこう変えると、こういう新たな問題が生じるな、とわかっていても、実際にその問題に直面してみなければ、対処できるかどうかはわからない。

なら、何にもしなければいいか、というと、そうもいかない。さっきまで割に座り心地のよかった座布団が、急に剣山のように変わったら、誰だって飛び上がってしまう。その先に、火の海が待っているとしても...

というわけで、今日もやっぱり動くのでありました...まあ、何とかなるでしょう(いい加減)。

| | コメント (0)

2010年9月 3日 (金)

よのなか

自分の常識では考えられないほど、ひどい出来事を目の当たりにした時、人はなぜ、反射的に、「世の中が悪くなった」と思うのだろう。確かなのは、目の前でひどいことが起きた、ということだけなのに。

元々、世の中というのは、それくらいひどい事件の起きる可能性のあるところで、たまたまそれを自分が知らなかっただけ、と考える方が妥当ではないだろうか。つまり自分の常識が甘かっただけ、だと。

今は、テレビやインターネットがあるから、自分とは本来、縁がないはずの人たちの言動をリアルタイムで目にする機会が増えている。そうなれば、必然的に、ひどい言動に触れる機会も増えるだろう。もし、良くない人の割合がいつもだいたい一定ならば、関わる人が増えるほど、良くない人の絶対数も増える。すると、何だか世の中が前より悪くなったように感じてしまう。

「昔は牧歌的だった。現代は世知辛い」というと、いかにもそのとおりのような気もするが、そうなる必然性などない。根拠などないのである。昔、牧歌的だったのは、多分、世の中ではなく、我々の物の見方、だろう。

| | コメント (0)

2010年9月 2日 (木)

可能性

子供には無限の可能性が...とよく言われるけれど、それは裏を返して言うと、「まだ何もしていない」ということである。何かをすれば、その分、時間と労力が取られるから、別の何かはあきらめなくてはいけない。つまり、何か大きなことを成し遂げようと思えば、たくさんたくさん、色々なことをあきらめなくてはならないのだ。うまくすっぱりと色々あきらめられた人が、かえってたくさんのことを成し遂げられる、という一見、矛盾したことも起きる...

普通の人は、一生懸命やっても、「ものになる」のは、せいぜい何か1つか2つなので、案外、あきらめるのは楽だ。でも、万能の天才の場合はそれがとてつもなく難しいのかもしれない。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、どうもそういう人だったみたいだ。何をやらせても超一流だから、どれもあきらめるわけにはいかない。あきらめたら世界にとって損失かもしれない...だけど、人間は永久に生きるわけではない。時間は有限だ。だとすれば、結局は未完の仕事を大量に残して死んでしまうことに...

なんともはや、そんな人がいるなんて。

Img_0002

すげえ...この本、レオナルドの発明スケッチ32枚をCGで再現、だって。細かい構造の図解まで...。

Img_0001

ドメニコ・コレンツァ、マリオ・タッディ、エドアルド・ザノン著、松井貴子訳
「ダ・ヴィンチ 天才の仕事」

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ブログランキングに参加中!もし、できましたら、上のボタンを1日1クリックしていただけると嬉しいです。

姉妹ブログ「横浜翻訳生活」もよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2010年9月 1日 (水)

なつかしい

会社員を辞めて15年になる。けれども、いまだに曜日の感覚が、まったく薄れない。フリーになると曜日の感覚が...とはよく言われるが、実はまったく同感できない。感覚が薄れない、というだけだと、ちょっと不正確かもしれない。正確に言うと、月火水木金土日、会社員時代にそれぞれどういう気持ちだったか、いまだに完全に鮮明に、いつでも再生できるのだ。日曜日にサザエさんを見ていた時の気持ち、とか、金曜の朝(夜)の気持ち、とか、水曜日の夜の気分、とか。すぐにその時の自分になれる。

フリーの生活は性に合っていたようで、とても快適で、別に戻りたいとはまったく思わないのだけれど。日曜日の夜に、ふと「ああ、明日会社行かなくていいんだ」と幸せを噛みしめたりもしているし。

こういうのは「記憶力がいい」とは言わないのかな。まあ、とにかく、記憶が薄れる、かすかに覚えている、ということが私の場合、あんまりない。鮮明に覚えているか、完全に忘れているか(最初から頭に入っていないか)のどちらか、という感じ...

なので、私は、めったに「懐かしい」という言葉を発しない。遠い記憶の彼方から何かが蘇る、ということがないので...たとえば、30年前の歌も、2010年の歌も、私にとっては全部、今の歌、だったり...

だからどうした、というと、別にどうもしないのだけれど...ただそれだけの話。

| | コメント (2)

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »