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2016年3月

2016年3月31日 (木)

ひとやすみ

新連載(?)は、いったん一休み。

横浜スタジアム行ったけど、やっぱりジャイアンツは選手層が厚いなあ。でも、全然かなわない感じなのに、結構、いい勝負してるからちょっと感動する。
厳しいけど、がんばれー。

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2016年3月30日 (水)

25時間(その2)

私も当然南回り。直行便など一切ない。どこを経由するか、という選択になる。日航や全日空など、日本の航空会社を使うことなどあり得ない。たいていはアジアのどこかの国の飛行機を選ぶ、それによって経由地が自動的に決まる。私が選んだ(というより旅行会社に割り当てられた)のは、シンガポール航空だった。経由地はもちろん、シンガポール。いったん、シンガポールに出て、そこからロンドン、ヒースロー空港行きの飛行に乗り継ぐのだ。

−つづく−

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2016年3月29日 (火)

25時間(その1)

はじめて日本の外に出たのは21歳の時。大学三年(関西では三回生という)の春休みだった。まだ関西国際空港はなかった頃。どこから旅立ったのだろう。もう記憶が定かでない。成田に行った覚えがないので、おそらく伊丹空港(大阪国際空港)からだろう。

行き先はイギリス。いきなりのイギリスである。当時は北回りでヨーロッパに行けるのは大金持ちだけで、庶民は南回りで行くしかなかった。北回りも直行はできず、アンカレッジ経由というのが普通だった。南回りだって正規料金なら高かったのだろうが、格安航空券というのが出始めていた頃だった。北回りの正規料金は往復で70万円くらいだったと思う。それは今も同じくらいらしいが。そして、南回りなら、20万円前後になっていた。今はそんなに安いと思わないが、その頃には「えー!」と目をむくくらい安かったのだ。普通の人でもヨーロッパに行ける、そのこと自体が驚きだった。
ーつづくー

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2016年3月28日 (月)

理由

「〜が売れた理由」というのを解説している文章を見かけることがある。いつも思うのだけれど、理由ってきっと2つや3つじゃない。1万とか100万とか、もしかすると億単位かもしれない。そして、中にはどこまでが一つか境目がはっきりせず、数えられないものもあるだろう。互いに関係し合っていて、こちらの理由を強めると、こちらが弱まる、なんていうのもあるに違いない。言葉で説明できる理由もできない理由もあるはずだ。説明できないものの方がきっと多い。

だから、こういう解説はほとんどの場合、信用できない。あげられている2つ3つの理由は確かに本当なのかもしれないけど、じゃあ、逆にその2つの3つの理由があれば売れるのかといえば、残りの何百万、何億がなければ売れないだろう。
考えるだけ無駄でしょう。下手の考え休むに似たり。

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2016年3月27日 (日)

旅は人間にとって必要だ、というようなことを言う人がいるけれど、普通の人が日常的に旅をしだしたのって割に最近なんだよな。少し昔には、旅をするとなればもう一大決心で、二度と生きて帰って来られないくらいの覚悟をして出たみたいだし。生まれたところからまったく動かない人の方が多かった。

旅は近代文明の産物です。なくても人間は生きていける。なのに、旅に出たくなるねえ。だからこれは、後天的な欲求なんだけど、文化の影響というのも結構強いってことだね。

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2016年3月26日 (土)

憶測

Aならば、おそらくBだろう。そう思えることは多い。人に教わったことなのか、経験で学びとったことなのか。その両方なのか。それはわからないが、ともかく、自動的に推測してしまうことはある。その推測は確かに結構、正しいのかもしれない。たとえば、90パーセントの確度で合っているとしよう。

では、その推測の上に推測を重ねたとしたらどうか。最初に推測が間違いなく正しいという証拠もなしにそうしたとしたらどうだろうか。その場合の確度は、0.9×0.9で81パーセントにまで下がる。さらにもう一度推測を重ねると、72パーセントに下がる。もう、これはかなり怪しい推測ということになるだろう。憶測、邪推、の類かもしれない。
推測は多くても一段階にしないと危険だと思う。そして、確かな証拠が得られないうちには、さらに推測を重ねるようなことはやめる。そう心がけているだけで、長い間には大きな差が生じると思う。

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2016年3月25日 (金)

部活動

中学校の部活動が嫌だった。私の通った中学校は地域の公立だったが、絶対に全員が運動部に入らなくてはならないという変なきまりがあった。運動が何より苦手な私は何があっても文化部に入ろうと思っていたのに、その道が閉ざされたのだ。

スポーツなら本当は野球が好きなのだが、体力のない者には野球部はきついと言われ(誰に言われたのか、もう覚えていない)、最も楽だという卓球部を選んだ。しかし、その楽なはずの卓球部がきつかった。そもそもまったくやる気がないのだから、きついに決まっている。
結局はなんだかんだとごまかして練習をさぼるようになり、めでたく帰宅部に入部、ということになった。なんという無駄だろう。部活動なんてなくなればいいのになあと思っている。なくなれば、皆、その時間で思い思いのことをするだろう。もちろん、役に立つことをする者は少ないと思うが。

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2016年3月24日 (木)

こっちがだめならこっち

こっちがだめならこっち、と簡単に考える人はよくいる。Aという意見とBという意見がある時、Aの方に欠点が見つかったとする。だが、それは必ずしも、Bという意見の良さを証明しない。Aの良し悪しはBには何の関係もないのだ。

価値観は時代とともに変わる。どの価値観も完全無欠ではない。当たり前だ。どれも一つのものの見方にすぎないからだ。当然、最も新しい価値観にも欠点はあるだろう。だが、それは前の時代の価値観の良さを証明することにはならない。それにはまったく関係がないのだ。やっぱり昔の方がよかったね、と考えるのはまったく愚かなことでしかない。

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2016年3月23日 (水)

ラオスにいったい何があるというんですか?

村上春樹著『ラオスにいったい何があるというんですか?』

紀行文には、「旅に行った気になるもの」と「旅に行きたくなるもの」とがあるような気がする。本書はどちらかというと後者だなあと思っていると、大半がJALの依頼で書かれたものだと知ってとても納得。旅に行きたくなるよ、ほんと。アイスランドは特に。アイスランド行きたいなあ。30万人しか人口がない国。どういうところだろう。
あと、個人的には、『遠い太鼓』にも登場したミコノス島を再び訪れるところが印象に残った。あのヴァンゲリスに再会しようと思うのだが、果たして...

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2016年3月22日 (火)

休憩

今日はいったん休憩。

もう桜がちらほら咲いているみたいですね。私はまだ見てませんが。
皆さん、お元気ですか。

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2016年3月21日 (月)

徹子と淀川おじさん 人生おもしろ談義

黒柳徹子、淀川長治著『徹子と淀川おじさん 人生おもしろ談義』

「苦労よ来たれ」「私には他人というものがない」「私はいまだかつて嫌いな人に会ったことがない」これは、淀川長治氏が主催した「東京映画友の会」のスローガンだ。こういう言葉から連想されるのは、前向きで明るく、人懐こい、そんな人柄だ。

私は子供の頃から、この「さよなら、さよなら、さよなら」おじさんに心惹かれていた。なぜだったのだろう、と大人になった今、考えると、おそらくそれは、彼につきまとう「孤独の影」のようなもののせいだったのでは、と思える。人の輪の中に入りたい強い気持ちもあるけれど、一方でうまく入ることができず、気づくと一人になっている。「君子の交わりは淡きこと水のごとし」という言葉があるが、本人がそう望んだから否かにかかわらず、結果的にそういう人物になってしまった。そんな気がして、どこか自分に似ている気がして、親近感を持ったのではないかと思う。

淀川さんは、人間は好きだけれども、人間に絶望しているところがあったのではないか、と思う。絶望している自分を何とか鼓舞して、90歳近くまで生きた。尊敬していると一言で言うのは変だが、私はとても尊敬している。

でも、良い映画を子供の頃から見ていると、美意識の優れた、神経の細やかな人間になるというような発言を淀川さんは繰り返しされているが、それは違うと思うし、本当は淀川さん自身もそんなことは信じていなかっただろう。だけど、あえて、そう口に出す、そんな人だった。

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2016年3月20日 (日)

作家の収支

森博嗣著『作家の収支』

本当にテストで100点を取った人が「100点を取った」という言うこと、これは自慢にならない。本文にそうあるが、まさに本書はそういう本だろう。自慢ではない。淡々と「私は100点を取りました」と書いている本である。自慢と受け取る人もそうでない人もいるだろう。でも、これは断じて自慢ではない。なぜ100点取れたのか、も書いていない。そんなことは本人にもわからないからだ。もし書いてあれば、それは嘘に違いない。わかる人はいない。強いて言えば「たまたま」ということであり、本書にもそう書いてある。
作家になりたいと思ったこともなく、小説を読むのが苦手でほとんど読んだこともなかった著者が小説家になり、年に1億円を稼ぎ出すようになった。あり得ない話ではないと思う。「文章力をつけるには本を読め」という人がいるが、本当なのか、と前から私は疑っている。文章のうまい人、日常的に文章を書く人の中に、本をたくさん読む人が多い、というだけだからだ。中には本など一切読まないのに、なぜか文章が書けるという人もいるに違いない。甘い物を一切食べないパティシエがいたっておかしくない。たいていのパティシエは自分でも甘い物を食べるのが好きだろうが、全員ではないはずだ。好きかどうかは才能とは直接、関係はない。
100点取ったから「100点取った」と言う。こういう人は好きだ。「全然勉強してないよー」と言いながら100点を取る人、100点取っているのにそれは黙っていて、「98点、すごいねえ」という人、大嫌い。

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2016年3月19日 (土)

談志が死んだ

立川談四楼著『談志が死んだ』

「談志が死んだ」...極めて不謹慎な回文、これを言えるのは身内か一門のものだけ。それも、チャンス(?)は一度しかない。弟子たちは、チャンスを心待ちにしていたという。
幸か不幸か、チャンスは来てしまった。そんな「命がけ」の回文をタイトルにしたのが本書だ。
家元、立川談志が亡くなった直後、何人かの弟子の落語を聞いたが、皆、一様に枕で「一同、解放感に満ちあふれております...」というようなことを言って会場を沸かせていた。この言葉がジョークでもあり、本気でもあるということが本書を読むとよくわかる。半分ジョーク、半分本気、というのではない。全部ジョークで全部本気、どっちも100パーセントなのだ。人の人に対する思いというのはここまで複雑になれるのか、と思う。
天才の名を欲しいままにした人間にも老いはやってくる。本書には、天才、談志が次第に耄碌していく様が克明に描かれている。著者は師匠に理不尽な、人間としてとても許すことのできないような仕打ちをされる。それが病ゆえのことだと頭では十二分にわかっていても、惚れ抜いて弟子になった人のことだといっても、やはり完全に許すことはできない。人間とはそういう悲しい存在なのだろう。つらい。

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2016年3月18日 (金)

7つの名前を持つ少女

手前味噌シリーズ(久しぶり)...新しい訳書が出ます。訳者あとがきの原稿を転載します...すごく面白いので、皆さん、是非、買ってください。よろしくお願いします!

訳者あとがき  

 面白い。とにかく面白い。極めて深刻な本なので、本来、「面白い」などと言うのは不謹慎だ。だからとても困るのだけれど、面白いのだから仕方がない。もし、これが小説だったら、「あー面白かった」で済むので気が楽なのだ。だが、これがノンフィクションで、すべて実話だ、ということを思い出すと、「面白い」と言うのをためらってしまう。著者の身になって、自分が同じ体験をしたら、と想像したら、背筋が凍る思いがするし、問題の深刻さにうなだれるしかなくなってしまう。
 事実は小説よりも奇なり、という言葉があるが、むしろこの本の場合は、小説よりも「できすぎている」と思うところが多々ある。小説でこんなことを書いたら「リアリティがない」と怒られそうなくらい、「うそ!」と何度も叫ぶくらい、鮮やかに幾多のピンチを著者は切り抜けていく。列車や飛行機にしがみついたり、高いところから飛び降りたり、といった派手なアクションがないだけで、あなたは『ミッション・インポッシブル』のイーサン・ハントですか、と言いたくなるようなシーンもあった。だが、著者自身にそんな余裕があるわけもないだろう。ただ身に降りかかる苦境を乗り越えようと必死になっていたら、結果的にそうなっただけだ。奇跡は、本当に必死になった人間に時に起きるものなのかもしれない。
 本書は、脱北者の物語だ。おおまかには、北朝鮮に生まれ育った著者がやがて国を離れ、中国そして、韓国へとたどり着くという物語だ。しかし、この物語は、おそらくそう聞いて多くの日本人が頭に思い描くであろうものとは違っている。最も大きいのは、本人に「脱北」しようという意思がなかった、ということだ。著者、イ・ヒョンソ(これは七つ目の名前だ)は、北朝鮮の身分の高い家庭に生まれ、恵まれた暮らしをしていた。もちろん、人間なので、不平不満がなくはないが、それでも今日明日、飢える心配とはまったく無縁で、まず「何不自由なく暮らしている」と言ってもよかった。また、北朝鮮で教育を受け、外の世界を知らず、比較の対象がないために、大きな不満を抱きようもなかった。第一、身近に多く餓死者がいるような環境で、毎日満腹だったのだから、それ以上を望むはずもなかった。
 彼女が国を出たのは、「ちょっと世界を見てみたかった」、ただそれだけのことだ。ほんの何日か間、世界(といっても隣国である中国だけだ)を見たら、すぐに戻ろうと思っていた。彼女が他の国、たとえば日本に生まれ育っていたら、それは特に何でもないことだし、むしろ周りから後押しもされたかもしれない。だが、幅わずか一〇メートルの川(冬には凍る)を渡ったら、もう彼女は引き返せなくなってしまった。故郷の目の前までは来られるのに、決してたどり着くことはできない。この物語はすべて、その一点から生じている。そして、北朝鮮という国の何が問題なのかが、浮き彫りになっている。彼女は決して問題提起をしようとして行動したわけではないが、結果的にそうなった。
 細い川を渡ることができないために、彼女は自分の母親に一二年も会うことができなかった。ただ「再び家族と暮らしたい」というささやかな望みをかなえるために、中国大陸をバスで(!)縦断した。三〇〇〇キロメートルもの旅をして、ついにはなぜか未知の国ラオスにまで行くことになってしまった。なぜ、ごく普通の人である著者がそんな大冒険をしなくてはならなかったのか。大冒険物語を読んでいるだけであれば、面白い、で済むが、本来、普通の人がこんな冒険をすること自体、異常なことである。
 どうすれば、問題は解決するのか、また少しでも状況は改善するのか、本書をきっかけに一人でも多くの人が考えるようになったとしたら訳者としてそれに優る喜びはない。

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2016年3月17日 (木)

持っているもの

人には持っているものと持っていないものがある。ものの値打ちは、価値観次第だ。絶対的な価値のあるものは存在しない。つまり、

持っているものの価値を最大に感じ、持っていないものの価値を最小に感じていれば、その人はきっと幸福である。
と言える。

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2016年3月16日 (水)

成功法則

何かに成功した人が、成功法則みたいなことを話したりする。それで、人として立派でなくてはならない、みたいなことを言ったりもする。

私は成功というのは「たまたま」だと思う。くじに当たるようなもの。ただ、そのくじを手に入れるには、ある程度、能力があり、人として一応まともでないと難しいというだけのことではないか。くじに当たるかどうかには、その人の人となりはまったく影響しない。だから、くじを手に入れた人の中では最低に位置する人が大当たりを引き、最高の人がスカを引いたりもする。たまたま。
きっとそうだと思う。

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2016年3月15日 (火)

同じ言葉

同じ言葉を使っていても、込めている意味は全然人によって違ったりする。言葉には決まった意味がないからだ。ないんですよ。ほんと。あると思っている人、気をつけてください。あると勝手に思い込んでいるだけですからね。共同幻想。

だから、どの言葉も、どういう意味なのか、いくら辞書をひいてもわかりません。一応、引いた方がいいけどね。辞書を作った人はあなたとも、あなたが話している人とも、あるいはあなたが読んでいる本を書いた人とも会ったことがないから、今、この時、その言葉がどういう意味で使われているかはわかりっこないんです。

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2016年3月14日 (月)

確定申告

確定申告、やっと終わった...もう本当に大嫌いだ。時間の無駄。

もう誰であろうと、収入の何パーセントかを黙って引かれる、それでおしまい、あとは年金も保険料も市民税も何も取られない。還付もなし。っていうふうにはならないかなあ。
収入が増えるとパーセンテージが上がるのもなんだかおかしいと思えてしかたないよ。
ああ、めんどくさい。

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2016年3月13日 (日)

分解

良い翻訳をするのには、

・語学力
・日本語力
・調査力
が必要という話がよくされる。これ、よく考えたら何も言ってないのと同じだ。語学力とは何か、日本語力とは何か、調査力とは何か、が具体的に語られていないからだ。おそらく、良い翻訳を見ていると、原文の意味を的確にとらえているし、日本語もちゃんと書けているし、調べるべきことをちゃんと調べてあるから、そう言う人が多いのだろう。だが、そのどれかが欠けている良い翻訳などないのだから、単に「そういうのを良い翻訳と呼んでいる人が多い」というだけの話だ。これから良い翻訳ができるようになりたい、と思っている人は結局、何をどうしたらいいかわからない。三つの要素をすべて満たしているのに悪い訳、というのもたくさんある。いや、その方が多い。
翻訳をするのに必要なのは翻訳力だけだ。それがすべてだ。そして、その正体は良くわからない。確かに、翻訳力がある人を観察すると、語学ができて日本語力があって、ものを調べるのがうまい。逆に、語学ができて日本語力があって、ものを調べるのがうまいのに、翻訳が下手な人、というのも存在するだろう。いや、前者より後者の方が多いかもしれない。
物事を要素に切り分けて、わかったつもりになるのは危険である。
わっかるかなあ、わっかんねえだろうな...

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2016年3月12日 (土)

得意分野

翻訳には得意分野が必要と言われる。本当だろうか。そもそもその分野が本当に得意だったら、その分野の人になっているのではないか。翻訳なんて七面倒くさい仕事はしていないのでは、と疑いの気持ちを抱いている。

私には特に得意分野というのはない。こういうのが訳したいというのも正直ない。面白い本が訳したい、とだけ思っている。この本が訳したくて、これを日本の読者の読んでもらいたくて、という気持ちもあんまりない。ただ、翻訳をして本にする仕事が楽しくて好きなだけだ。
最初は「得意分野はない」などと正直に言うと相手にしてもらえないので、何のかんのと言っていたが、正直に言えるようになりたい一心でがんばってきたところはある。何が得意と言おうが、結局、仕事は相手次第だから、実際には何が来るかわからない。それを一つ一つきちんとこなしていれば、「得意分野、決まったものはないです」と言ってもいつか納得してもらえるようになると信じていた。
いやいや、翻訳のプロなんだから、得意分野って「翻訳」じゃないの? 他に何があるっていうんだろう。

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2016年3月11日 (金)

赤めだか

立川談春著『赤めだか』

「...きちんと一席教えてやる...よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ。教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ...」
こう言っていた立川談志。前座から二つ目への昇進基準も実に明快。古典落語を五十席覚え、師匠に覚えたと認められること。ほぼそれだけ。
では、談志が杓子定規で生真面目な人かと言えば、そんなことはない。そう思う人は世間に多分、一人もいないだろう。明確に決めてあるはずのルールは簡単に揺らぐ。結局は、師匠におめえおもしれーな、すげーな、と言わせればよかったりする。いや実はその方が大事なのだ。
高い能力と志を持った若者が、化物のような天才とぶつかって何が起きたのか、根多のようだけれど、真実(まこと)の話。

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些細な言葉

どうでもいい話。些細な言葉について。

「翻訳家」
なんか、同業者の方々に、この言葉に異常に反応する方が多くて驚いた。それで、わざわざ「翻訳者」というなんとなく妙な言葉に言い換えている方もよく見かける。それって「特定の本や文章の翻訳担当者」のことじゃないの? 職業じゃなくないですか。自意識過剰じゃないですか。かえって照れてしまう。世間の人ほとんどは、二つの違いなんて何にも気にしてないと思うし、翻訳家ならまだ通りがいいような気がするけど。第一、私は「翻訳家になりたい」という気持ちでせっかくここまで来たので、別の言葉に言い変えたくはない。人生は短いのだ。また、同じ理由から、どうしても私のことを「翻訳者」と呼びたい方は、別にそれでいいと思っている
要するにどうでもいいということ。
同じようなことは「先生」って言葉にも言えるなあ。これも過剰反応すると恥ずかしい気がしている。「先生はやめてくださいよ」とか。「先生」というアダ名、くらいに思っているけど。それに正直、別に悪い気はしないし。呼びやすいならそれでいいじゃないか。

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2016年3月10日 (木)

シドニー!

村上春樹著 『シドニー!』

オリンピックとか、ワールドカップとか、国別対抗なのが本当に嫌です。自分と縁もゆかりもない人を自分の「代表」だなんて思いたくないし、向こうだって迷惑でしょう。何かを一生懸命やっている人は好きなので応援したいですが、それはオリンピックの選手でなくても同じです。とりたてて、彼ら彼女らだけを応援することはない。勝っても「良かったねえ」とは思っても誇りになどまったく感じないし、負けても「残念でしたね。気の毒に」とは思っても、まったく非難する気になどなれない。
私はそれが当たり前だと思うし、それ以外の発想、感慨があるのが不思議で仕方がない。
オリンピックにまったく興味のなかった村上氏が、ふとした「出来心」でシドニーオリンピックの取材をすることになり、三週間で本一冊分の原稿を書く、という超人的な作業を経て作られた本書。
そういう著者の書いたオリンピック本なので、私のような人間にも、一種の小説、あるいはエッセイとして楽しく読めた。
印象的な箇所を二つ引用。
・...ただひとつだけここで語っておきたいことがある。それは東京に戻ってきて、ビデオで録画されたオリンピック中継を見てみたら、まったく別のものに見えてしまったということだ。同じひとつのゲームを別の側面から見たというような生やさしいものではなく、そもそもぜんぜん違うゲームみたいに見えたのだ...
・...「平和の祭典」という表現が昔から一般的によく使われているようだけれど、長い歴史を通じてオリンピックは実質的に、平和になんてちっとも寄与してこなかったんじゃないか、というのが僕のささやかな言い分である...

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復活

ええっと、なんの前触れもなしに復活です。

「アホ」と「かしこ」の定義は色々だと思うのです。ここでは仮に、こう定義しましょう。
・アホ
頭の中に「世界のモデル」があり、そのモデルを現実世界と同一視している。また、そうしている自覚がない。
・かしこ
頭の中に「世界のモデル」はあるが、そのモデルはあくまで便宜上のものであり、現実世界とは大きく違っていることを認識している。モデルは絶えず修正せねばならないと思っており、実際、ことあるごとに修正する。
「世界のモデル」は、通常、非常に精度が高く、それを基盤に物を考えていても、さほど支障はありません。しかし、時折、モデルの外にあるような異常事態(本当は異常なんてどこにもないのだけれど、モデルから外れているという意味で異常)が発生します。その時、
・アホは、咄嗟に「ありえない」「ひどい」と思う。今までは(自分の若い頃は)そんなことはなかった、と思う。そして、長く生きるほど、当然、異常事態を多く体験するので、アホには世界が悪化しているように見える。ついには「世も末だ」と言い始める。
・かしこは、「あ、やはりモデルには不備があったな、なるほどこういうことも起きるのか...」と学びはするが、世界が悪くなったとは思わない。良くなったとも思わない。単に自分の認識不足を再確認するだけ。
ややこしいのは、アホの方が思考の時間が短くて済み効率的だということだ。しかも、大きな異常事態が生じない限り、さして不都合はない。かしこはいちいち細かく考える分、どうしても非効率となり、行動が遅れる。
そして、アホの方が数が圧倒的に多い。世の中はアホが動かしている。かしこが功を奏するのはよほどの異常事態においてのみである。しかも、かしこの一握りだけが活躍できる。
ただし、かしこは退屈をあんまり感じることなく生きていけるという長所もある。アホには認識できない小さな差異に気づくので、何を見ても聞いても新鮮。
アホとかしこが仲良くできるといいんやけどね...

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